2015/05/11

日本のうどん発祥地探訪記-発動編その1

これまでの経緯
接触編その1
接触編その2

五島うどんのルーツの地といわれる長崎県上五島・船崎地区にある、船崎うどん伝承館で、うどんづくりの現場に遭遇するとともに、五島うどんの歴史と、その製造、調理法について、(なにしろ島観光の残り時間での訪問故、10分強!の)短い時間ながら、その技を伝承している方からご教示いただくことができました。

概説的な歴史各所にでているのでご参照いただくとして発動編その1では、具体的な工程の解説はオフィシャルなサイトに委ねるとして、このエントリでは歴史な部分を掘り下げて、聴き語りで採録します。


そもそも、この地でうどんづくりが始まったのは遣唐使の時代にさかのぼります。この集落に向かうため国道を外れるところにあるのが、島の中ではなかなかに大きな青方の町。ここは遣唐使船の寄港地であり、中国の麺の製法が、遣唐使を通じて伝わったとのことです。

五島うどんの製法は、基本的にはそうめんと同じようなのですが、まったく同じような製法が中国・浙江省に残っており、そのことが中国>五島>日本という、うどん伝播の道筋を示す証左なのだそう。

そして、五島へ伝わったうどん(饂飩)の製法は徐々に全国に広がっていきます。秋田県の稲庭うどんも、五島うどんの製法が、北前船を通じて伝わったとのこと。しかし、伸ばしていく工程の中で、押しつぶす作業が入ることで断面が丸い五島うどんと、平べったい稲庭うどんの差異が生まれてきます。


さて、そうして上五島に伝わったうどんづくりですが、島内でも船崎地区で作り続けられてきたことにも、風土的な条件が絡んできます。

まず、米作りには適さない島の条件面から、古くから小麦が栽培され「小麦の島」だったこと。合わせて多くの椿が自生していて、油が入手しやすい環境だったことが、うどんづくりに適していたことが揚げられるとのこと。お話には出てきませんでしたが、周囲が海のため(実際にお土産にはたくさんの塩を購入しました)、塩の入手には問題はなかったことでしょう。

気候面では島の北西に位置するため、北からの風が吹いてくることも幸いしました。よりをかけながら八の字にまいて「掛巻き」し、伸ばされたうどんは30分も自然の風にさらせば、表面が乾燥し麺同士がくっつくこともなくなるそう。あとは室内乾燥で芯まで乾かせばOKとなります。島内でも、こうした乾麺づくりに適した環境が大きかったそうです。


本当は、乾麺にするよりできたてのうどんを茹でて食べた方がおいしい。けれども、保存の利く乾麺とする理由もありました。

保存食としてつくることはもちろん、島では漁業に従事する方も多く、漁に出たときに食料として持って行くためにも乾麺として加工することが必要だったとのこと。

そのうどんは、かつては家々で手作業で作っていたものでした。五島うどんは「幻のうどん」と呼ばれることが多いそうですが、それはずっと業として製造されることもなく、家々にある「うどん小屋」で作られ地域内で消費されていたことによるもの。

近年は、工程が機械化され特産品として流通するようになりましたが、上記のような地域の食べ物としてはぐくまれつづけてきた歴史が「幻」の背景にあったそうです。

今では多くの工程で機械が取り入れられて生産量も増加してきていますが、船崎では、今でも何軒かの方は、すべての工程を手作業でうどんづくりを続けていらっしゃいます。

ところで、この施設ではうどんづくりの体験もできるそう。「できたては、乾麺よりもずっとおいしい」とのことで、次の機会があれば、是非体験・賞味してみたいところ。でも、そのころには頭ケ島教会が世界遺産の一部になって、今回みたいにのんびりと島を訪ねられないかも。

発動編その2に続く。

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